2021年11月17日水曜日

意味もなく穴を掘り続けることについて

小学4年生のとき、昼休みの時間だけで校庭の砂場にどれだけ深い穴を掘れるか毎日挑戦することに友達と2人でハマっていた。「どこまで掘ればゴール」のような目標は一切定めていない。「40分間で限界まで掘り続け、昼休み終了5分前に急いで穴を埋めて元に戻す」という意味のない作業にひたすら没頭していた。

僕らの穴を掘るテクニックは日に日に向上していき、動きも美しく無駄のないものとなっていった。最初は2人でがむしゃらに砂をかき続けるだけだったが、途中からは効率の良い分担作業を確立させた。その息ピッタリで機械的な動きは、熟練の餅つき職人のようだったと記憶している。

ある日、僕らの穴掘りは1つの到達点に達した。深く掘りすぎて、砂場の底から水が溢れ出てきたのだ。穴を掘った先に湧き水があるなんて1ミリも想像していなかった。僕は感動と驚き、そして少しの恐怖を感じた。この恐怖は「自分たちがとてつもないパワーを秘めていること」や「徐々にショベルカーに近付いていくこと」への戸惑いから生じていたと思う。

次の日、僕らはどちらが言い出すこともなく穴掘りをやめた。「水が出てきたら辞めよう」なんて取り決めは最初からなかったのに。あの水を見た2人には「ここまできちゃったらもう十分だろう」という達成感があり、それは言葉を交わさずとも共有できる感覚だった。

「目標に向かって努力しろ」「ゴールが見えていない状態で走り出すな」とよく言われるが、それは何かの可能性を狭めることがある気がしている。目標や目的がない状態で努力しても、何かに“到達”することがある。僕は砂場から水が湧き出た衝撃的な瞬間を今でも鮮明に覚えていて、良くも悪くも、先に何も見えていないのに走り出すことにとてつもないロマンを感じるようになってしまったのだ。


※追記

毎日、一心不乱に深い穴を掘る2人の姿はほんの少しだけ校内で話題となり、その様子を見学しに来る児童がたまにいたそうです(伝聞)。


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