先日、このブログで「差別について」という面白テキストを書きました。
今からするのは、この記事に関する話なので、読んでない人はまずそちらをお読みください。
すごく短くまとめると↓こういうことです。
・節分のときにTwitterで「鬼なんて、ぶっ殺してやる 牛刀でギタギタに引き裂いて、小便をかけろ」「福はどうぞ我が家にお越しください」とか言っちゃったけど、「鬼のモデルは漂流してきた西洋人」とかいう説を持ち出すとやや差別的な雰囲気が漂っていたな。鬼さん、ごめんなさい。
・架空の生き物である鬼にも配慮するなんて過剰すぎるでしょうか? いや無意識な差別をなくすためには過剰すぎるくらいがちょうどいいのではないのでしょうか。
正論を言ってるつもりはなく、あくまで個人的な考えです。
するとこのブログには大変珍しく、記事に見知らぬ方からコメントがついていたのです。それは以下のようなものでした。
鬼は人間ではありません。存在しないのです。自分の事を鬼であると自認する人間は自嘲以外の意味では基本的にいません。要するに、差別が問題になるのは当事者やその関係者が騒ぎ立てるからであり、鬼を差別したところで、鬼が騒ぎ立てる事はないので、鬼は思う存分差別してよいと思います。
1回読んだだけでは若干何を言っているのか意味が分からなかったのですが、意図を汲み取ろうとしながら何度も何度も読み直しているうちに、なんとなく「こういうことを言いたいのかな」という意図は汲み取れてきて、「そうですね」と思う部分も、「違うのでは」と思う部分も出てきました。皆さんも上のコメントを10回くらい読み直して、なんとなく「こういう意味かな」というのを汲み取ってみてください。まずは個人的にどう思ったか考えてみてください。その上でこの先の文章を読み進めてほしいです。
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この文章を見たときに率直に思ったことは「わかりにくいな」でした。ごめんなさい。途中で出てくる「要するに」のあとが要していない気がしますがどうでしょうか。「何を言い出したんだこの人は」と不安になっているところに「要するに」が出てきたので、「要してくれるんだ!」と安心したのに、急に論が別方向に飛躍したので余計不安になってしまいました。ということで、このコメントが何を言いたいのか、丁寧に丁寧に解きほぐしていこうと思います。
このコメントをちゃんと理解するために①
「途中で世界観が変化していることを見抜け」
この文章を3つに分解するとなぜわかりにくいのか見えてくると思います。前半、中盤、終盤で世界観が変化しているのです。世界観とは「世界とはこういうものだ、その中で人はこう生きるものだという、世界・人生に対する見方」です。
●前半
「鬼は人間ではありません。存在しないのです」
→鬼が完全にいないことになっている。
●中盤
「自分の事を鬼であると自認する人間は自嘲以外の意味では基本的にいません」
→鬼が(基本的に)いないことになっている。※いる可能性が出てきている。
●終盤
「鬼を差別したところで、鬼が騒ぎ立てる事はないので、鬼は思う存分差別してよいと思います」
→鬼がいることになっている。
この短文の中で3回、別の世界観に移行しちゃってるんですね。合間に何も補足がない。だから何度か読み直し、合間を自分で補足しながら、この人が何を言ってるのかを汲み取る必要がある。丁寧に読めばそこまで変なことは言っていないのですが、単純に初見だと厳しい。
このコメントをちゃんと理解するために②
「おかしな断定を見抜け」
シンプルにおかしい記述があるので、余計理解するのを鈍らせます。「いるはず」「あるはず」の存在を「ない」と断定した状態で話が進んでいるので基本的に全体が破綻しています。特に顕著なのは以下の2つの部分です。
・自分の事を鬼であると自認する人間は自嘲以外の意味では基本的にいません
→他人から「鬼」と言われる人もいるのでは? あと「基本的に」と言っているけど、差別のことを語っているときに何故「例外」を外して語っているのか? 差別は例外にされてしまった人々の問題なのでは?
・差別が問題になるのは当事者やその関係者が騒ぎ立てるからであり
→当事者や関係者が声を挙げられず黙っているけど密かに嫌な思いをしている差別問題もあるのでは?
このコメントをちゃんと理解するために③
「最後の文章の意味を限界まで汲み取れ」
差別が問題になるのは当事者やその関係者が騒ぎ立てるからであり、鬼を差別したところで、鬼が騒ぎ立てる事はないので、鬼は思う存分差別してよいと思います。
この文章は三段論法です。3つに分けてそれぞれを検証していきます。
①②が前提、③が結論です。
①差別が問題になるのは当事者やその関係者が騒ぎ立てるから
②鬼を差別したところで、鬼が騒ぎ立てる事はない
③鬼は思う存分差別してよい
まず
①差別が問題になるのは当事者やその関係者が騒ぎ立てるから
→先ほども言いましたがこの前提が成立してないです。当事者や関係者が声を挙げられず黙っているけど密かに嫌な思いをしている差別問題もある可能性もあり、言い切りにできないはずのことを言い切りにしています。
②鬼を差別したところで、鬼が騒ぎ立てる事はない
→「途中で世界観が変化していることを見抜け」の章でも言及しましたが、この鬼がどの世界観での鬼を言っているのかがわかりません。「ファンタジー上の鬼」のことなのか「自分の事を鬼であると自認する人間」のことなのか。
汲み取ろうとすると「騒ぎ立てる事はない」と言っているので、恐らくファンタジー上の鬼だと思います。つまり「鬼はこの世にいないんだから、いくら差別しても騒ぎ立てない。だって存在しないんだもの」ということですね。
以上のことに配慮した上で、元のコメントを分かりやすくすると下記のようになると思います。
【前提1】差別は当事者や関係者が騒ぎ立てるから問題になる
【前提2】鬼はこの世にいないからいくら差別しても騒ぎ立てないから問題にならない(悲しむ人が出てこない)
【結論】だから鬼は差別していい
ようやく何を言ってるかがわかってきました。
その上で、この主張が正しいかどうかは僕はわかりません。
「完全に正しい」「完全に間違っている」ということはないので、
各々の立場や思想によって受け取り方は異なるでしょう。
それを踏まえて、ここから下は個人的に思ったことです。
ここからがようやく「コメ返し」です。
印象論的な話や個人的な好き嫌いの感想も含まれます。
個人の感想①
「騒ぎ立てる」は無い
引っかかったのは「差別が問題になるのは当事者やその関係者が騒ぎ立てるから」という文章です。「騒ぎ立てる」って表現、すごく嫌な感じしないでしょうか。「差別当事者が差別について問題提起をする」ことを「騒ぎ立てる」と表現する感覚ってどうなんでしょうか。書き手の心のどこかに「差別を問題提起する人たち」に「ギャーギャーうるさい人」というイメージがないと「騒ぎ立てる」は使わないんじゃないかなと思っちゃいます。これは言葉狩りではありますが、しっかり狩らねばという思いにも駆られました。
個人の感想②
「問題にならないからいい」という考えについて
もう1つ問題視したいのは、またもや「差別が問題になるのは当事者やその関係者が騒ぎ立てるから」の部分です。ここが「鬼は思う存分差別してよい」という結論を支える理由になっているのですが、「騒ぎ立てる当事者がいないからいい」「問題にならないからいい」という主張じゃ流石に支えられない。
「問題にならない」ことって、それ自体が問題なのではないでしょうか。差別を無くす第一歩ってむしろ「問題にすること」ですよね。「大多数が気付かなかったけど、実は密かに少数の人々が悲しい思いをしている」みたいな潜在的な問題を顕在化していくことが大事だと思います。
コメントの根底にあるのが「問題にならないからいい」という思想なので、それが差別当事者の気持ちを考えることとは真逆の考え方であり、そんな人が「差別は思う存分していい」とか言ってしまうのは恐ろしいですよね。
個人の感想③
「鬼がいたらどうしよう」という想像力を無視すな
全世界で何兆回も言われていることではありますが、自分の中の差別意識を無くすのに必要なのはやはり想像力です。「自分は傷つけるつもりなく言ってるけど、傷つけるかもしれない」という想像力。それをパロディとして過剰に言ったのが「鬼が傷ついたらどうしよう」という内容の文章だったんです。その上で「考えすぎることはいいことだと思う。特に差別に関しては死ぬほど敏感に考え続けるくらいでちょうどいいと思う」と僕は言ったわけです。それに対して「鬼はいないのです」と言われてしまったらビックリしてしまいます。Twitterで「生まれ変わったら猫になりたい」とツイートしたら、知らない人から「生まれ変わりません。死んだら終わりです」とリプが飛んでくるのと似た感じです。やっぱり戸惑いますよね。
これらが僕の思ったことの一部です。どちらが正しいのかという結論を追求するつもりはなく、ただの感想ですので、フワッとしていてすみません。「反論」ではなく「対話」っぽくしたいので敢えてそうしています。以上、「130文字のコメントに3700文字でコメ返ししてみた」でした。
あるがとうございました。
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