2021年2月5日金曜日

差別に関して

「鬼なんて、ぶっ殺してやる 牛刀でギタギタに引き裂いて、小便をかけろ」
「福はどうぞ我が家にお越しください プレイステーション2の面白いゲーム、そろっております 甘いお菓子を食べながら、お楽しみください。」
「鬼は、耳にドリルを突っ込んで鼓膜を破れ 熱した釘の風呂にぶちこんで、上から小便をかけてしまえ」
「福はどうぞ我が家にお立ち寄りください トイレだけでも結構です、最高級の便所紙を用意しておきました そのあとはふかふかのベッドでお昼寝どうぞ」
「鬼はマチェーテで真っ二つにして、断面にチョロQを走らせろ 死体に腐ったバナナをくくりつけて、上から丁寧に小便を垂らせ」

節分のときにこんなツイートをした。深夜2時に。「鬼は外、福は内」というフレーズの理不尽さが好きなので、それをさらに過剰にしたら面白いかなと思って言ってみた。

翌日、ベッドの中でいろいろ考え事をしているときに「鬼のモデルは漂流してきた西洋人」という説をふと思い出し、前日のツイートはあまりよろしくなかったのではないかと思い始めた。「鬼は外、福は内」も“鬼の人権(=鬼権)”という観点からすると、考え直されるべき風習なのかもしれない。悶々と考えて冷や汗が止まらなかった。日々反省である。

僕の部屋には部落差別問題に関する本が多数ある。最初は「グリコ・森永事件」に関心があり、事件に関する書籍をいろいろ読み漁っていたのだが、その中で「部落」に関する記述があって、部落差別に興味を持ち始めた。最初は「裏モノJAPAN」的なタブーに斬り込むノリの興味だったが、各地の古本屋で黙々と部落差別に関する文献を集めているうちに、だんだんと専門的かつ真面目な話ができるようになった。今や「裏モノJAPAN」的な悪趣味な興味もほとんどなく、結構真剣に差別問題を学んでいる。だからこそ差別問題に対しての知識・考えにはそれなりに自信があった。大阪なおみにまつわる人権問題が話題になったとき、明らかに周りに流されて「差別ダメ」と言っている人たちに対して「急に他国の差別問題の話してるけど、普段から自分の国の差別問題について学んだことあるのか」などと脳内でマウンティングをとったりしていた。

そんな自分が「鬼なんて、ぶっ殺してやる」はいかがなものか。それを言い出したら「鬼滅の刃」なんて完全アウトだし考えすぎだろうか? でも考えすぎることはいいことだと思う。特に差別に関しては死ぬほど敏感に考え続けるくらいでちょうどいいと思う。自分ではわからない人の痛みを想像するというのはかなりの大仕事なのである。

人間は「考えて」「行動する」の繰り返しだが、「考える」の部分はやりすぎくらいでいいと思う。逆に「行動する」の部分はなるべくやりすぎじゃないほうがいいと思う。先日、アイドルが「えたひにん」と発言して活動自粛になっていたが、これは「行動する」の部分がやりすぎ。「少しでも間違えた発言をしたら即活動自粛」と「行動」の部分を極端にしてしまうと、差支えの無い考えで落ち着くのが一番安全ということになり、結果的に思考停止に陥ってしまう。それはよくないと思う。間違えてもいいから、いろんな可能性を考えることが大事なのだ。

ということで鬼をぶっ殺すことはやめた。マチェーテで真っ二つにするなんてもってのほか。お互い干渉せず、自由に幸せに、そして健康に暮らせたらと思う。

1 件のコメント:

  1. 鬼は人間ではありません。存在しないのです。自分の事を鬼であると自認する人間は自嘲以外の意味では基本的にいません。要するに、差別が問題になるのは当事者やその関係者が騒ぎ立てるからであり、鬼を差別したところで、鬼が騒ぎ立てる事はないので、鬼は思う存分差別してよいと思います。

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